monsyo
ハプスブルク家の紋章

カール5世とは?

 1.はじめに
(読む前に必ず読んで!) 


 カール5世とはどういう人であったのかということをここで紹介したいと思うんだ。ここまでたどりついた人は、意外と歴史好きねえ、って感じだな。ここで注意して頂きたいのは、俺自身は歴史の専門家でも何でもない(一応、経済学部出身だし、どっちかというと、中国史の方が専門だ。)ので、詳しいことを説明されてもわからないってこと。しかも、俺自身、ヨーロッパなんかには行ったこともない。従って、分かる範囲で俺の思い入れも含めて、簡単に説明したいと思っている。
 なお、これを読んで、世界の歴史に興味を持ってもらえれば幸いである。歴史というのは同じことの繰り返しではないが、似たようなパターンというのは結構存在している。それに文化というものを理解する上でかなり重要なヒントを与えてくれるはずだ。
 もう一つ注意。俺は歴史にロマンを感じにくい体質だから、変なことの2つや3つは書くことになっちまう。だから、ロマンを感じる人は読んでて気分が悪くなるかも知れないな。あと、どっかの国にすごく入れ込みのある人。これも閲覧はやめておいた方がいい。特に、ネオナチ関係、スペイン関係、ハプスブルク関係、日本の天皇関係にこだわりのある方はご自分の信念を守っていただいて早々に戻ることをお勧めしておく。読んだからって、文句言わないでくれよ!ここで警告してるんだから。俺は俺の信念があるけど、他人の信念も尊重しているのだから、みんな仲良くやるためにはこういう警告をせざるを得ないことをあらかじめ断っておく。
 




2.ハプスブルク家


 カールを語るにはまず、彼の出身母体である、ハプスブルク家を知っていた方が都合がいい。今は確か、オットー・ハプスブルクという人が欧州議会の議員になってるはず。この人を見てわかるように、ヨーロッパというところは貴族社会の伝統がある程度残ってるようだ。
 ハプスブルク家はかなり昔からあったらしい。その起源は、そんなに大きくもないを持つ田舎貴族である。場所はスイスのあたり。それが後に大きくなるのは、そこの領主であったハプスブルク伯ルドルフがローマ王に選出されたことから始まる。このことを大袈裟に説明するのが筋だが、俺はそんなにすごいことだと思わない。きっと、意外に実力があっただろうから。だって、7人いる選帝侯を納得させないといけないんだからね。納得っていうのは、今の昔も金で買うことが可能だから、結構財政潤沢でないと、なれなかったと思うんだ。ま、大空位時代だったから、操りやすい王様を立てようっていう雰囲気はあったんだろうけど。始祖の伝記って大袈裟なのが多いでしょ?でも実際は違う場合が多いと思うよ。
 その後、ローマ王から神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれる人間がハプスブルク家から多数出た。これは、日本とか中国とかと違って、途中で全然関係ないような家が皇帝位を占めることはドイツでは全然不思議なことではなかったらしい。

 建前って意外と通じないのかもね、ヨーロッパでは。日本だと一回権力者になると、一応何かあるまで続くでしょう?でも、どこで途切れてるかなんてわかんないもんだぜ。万世一系の何とかも含めての話。おっとこれはちょっと危ない話だった。でも、えらい人に限った話じゃないらしいよ。これって。(フォローになってない・・・)

 その後、ハプスブルク家はこの地位を利用してどんどん領土を拡張していく。前述の始祖ルドルフの代には、この小領主が皇帝の地位にあることでオーストリアを領有してしまうってんだから、たいしたものだ。こうして、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内の有力諸侯の一つに収まってしまう。でも、ハプスブルクはこれだけで収まったわけではない。
 どうも、ヨーロッパってところは、血統を随分と重んじるらしい。だから女帝とかも簡単に誕生してしまうわけだろう。血さえ引いてればいいわけだ。そのからくりに目を付けたかどうかは知らないが、ハプスブルクは結婚政策によってどんどん領土を広げることになる。例えば・・・
 ブルゴーニュ公国の乗っ取り(?)がいい例だ。ハプスブルク家の当主であったフリードリヒ3世が息子のマクシミリアンをブルゴーニュ公国の公女と、政治的優位に立ったところで婚約させる。この公国には男の世継ぎがいなかったので、これでブルゴーニュ公国はハプスブルク家のものとなるわけである。しかも、マクシミリアンは後にハプスブルク家当主、神聖ローマ皇帝と兼任することになり、それらの遺産は当然、彼とブルゴーニュ公女との間の子供であるフィリップに受け継がれることになるわけ。戦争なき併合がハプスブルク家の得意技であった。その後も何度かこういうのを決めてくれている。
 有名な言葉「戦は他国にさせておけ。汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。」というのは、こういう背景からなのだ。

 領土を広げに広げたハプスブルク家は、スペインをも結婚によって手に入れ、いわゆる新大陸にも領土をもつことになる。「太陽の沈まない国」スペインは実はその当初このハプスブルク家のものだったことになる。それで、大きくなりすぎた帝国を2つに分割する。スペインとオーストリア。スペインは後にスペイン継承戦争でフランスのブルボン家が奪ってしまうのだが、オーストリア系は綿々と血統を伝え、現在でも名門として通っているようだ。
 オーストリア系は後にオーストリア・ハンガリー二重帝国という国の皇帝の家となる。このことについて、あるハンガリー人に聞いたことがあるが、ハンガリーではこのハプスブルク家について、それほど批判的ではないようだ。俺が尋ねた人は、「俺はハプスブルクは好きだ。」と言ってた。
 ハプスブルク家であることが有名かどうかは知らないが、俺の中では、2人の女性が有名だ(笑)。一人は、マリア・テレジア、そう、プロイセンのフリードリヒ2世と渡り合った女帝であるが、この人もオーストリアのハプスブルク家の出身だ。後一人は、「パンがない?だったらケーキを食べればいいじゃない。」のマリー・アントワネット、これはかなり有名だろうな。この人はフランスに嫁いだんだけど、実はハプスブルク家の出身。マリア・テレジアの娘である。(漫画では、かなり悪者に描かれていたみたいだが、当時の貴族の女なんてみんなあんなもんじゃないの?)
 他には、時代は前後するが、「ウィリアム・テル」(あの、頭の上のリンゴを弓矢で打つ話)に出てくる悪代官は実はハプスブルク家の家来であって、その頃、スイスではハプスブルクは随分嫌われていたらしい。

 有名な、第一次世界大戦の火蓋である、オーストリア皇太子の暗殺の皇太子も、実はハプスブルク家の次期当主だったわけで、知られていない割には意外と影響力があったりするわけだ。しかも、第一次世界大戦で敗戦国はというと、オーストリアが入ってるだろ?これは、まぎれもなくハプスブルク家の国が負けて、オーストリア帝国が崩壊したことを示している。ハプスブルク家はこういう意味で日本の何とか幕府とかよりもかなり長い期間、権力者の地位を占めてきたのである。

 カール5世が生きていたのは、前述のスペインを手に入れるあたりである。カール自身、スペインを手に入れる駒の一人だった。時代は16世紀前半から半ばにかけてのことである。

 




3.カール5世のおかれていた状況


 カール5世が生まれたのは1500年(だったかな?)。その頃は、有名な免罪符の時代であって、カトリック教会がかなり腐敗していたらしい。聖職者ってやつは意外と腹黒いやつが多かったようで、金もうけに走っていたやつも少なくなかったらしいな。これに対抗して出てきたのが、ルターの率いる新教。いわゆるプロテスタントだ。要するに教会が金ばかり取っていくのに怒って、信仰を大事にして、金は二の次にしろっていうのが彼らの主張であったようだ。そういう信仰の組織が許されていなかったので立ち上がったのだろう。余談だけど、その後、アダム・スミスのおっさんが「神の見えざる手」とか言ってた「国富論」を書くわけだが、これは、金もうけが自然なものであることを説いたものであったようだ。だから、この時点では金もうけはまだ悪いことだったみたい。

 もう一つはフランスの野望が渦巻いていた時期でもあったみたいだ。フランソワ1世という国王がかなり精力的にあちこち領土を広げたがっていたようだ。神聖ローマ帝国の皇帝にも立候補したほどだ(神聖ローマっていうのは、要するにドイツのことだけど、フランス王がドイツの皇帝になれちゃう世の中っていうのはすぐには理解はできん。)。

 さら今一つは、トルコである(風呂のことではない!)。オスマン・トルコというこれもかなり長く続いた国だが、このころはかなり勢いがあって、スレイマン1世という格好のいい名前のおっさんが必死にヨーロッパに食い込もうとしていたらしい。俺の印象ではこのころのトルコ人ってかなり凶暴だったように感じる。要するに戦争が強そうだってことだ。しかもイスラム国家だっていうんだから、キリスト教のエリアではやっぱり怖かっただろうな。トルコがヨーロッパを目指すとき最初にぶつかるのはオーストリアだったんで、ハプスブルクは矢面に立たされるわけだ。

 つまり、国内の宗教問題・フランスとの対決・異教徒からのキリスト教圏の防衛という3つの課題があったわけだ。これをクリアするのは至難の技ではないだろう。

 




4.カール5世の生涯


 彼のデビューは、まずスペイン王になったことだ。祖父のマクシミリアン1世が神聖ローマの皇帝で、カールの父フィリップとスペイン王女、スペインの王子とマクシミリアンの娘という二重結婚をして当時スペイン領であったイタリアの一部をフランスから守ろうとしたことに発端がある。後者の結婚はスペインの王子が速攻で死んでしまったために、スペインの王女ファナが唯一の生き残りとなってしまった。このファナというおばさんはどうも変な人であったらしく、発狂したりしたらしい。ともかく、ファナの夫であるフィリップがスペイン王となってしまったわけだ。

 ところがこのフィリップのカールが若いうちに死んでしまった。スペイン王の地位はこうしてカールのところに回ってきたわけだ。カールはブルゴーニュで生まれ育ったそうで、ブルゴーニュから海路スペインへ渡ったらしい(さすがにフランスは通っていけなかったみたいだな)。当時のスペインというのは、日本の戦国時代で言えば九州のようなところで、質実剛健の国であったようだ。闘牛とかってアイディアはそんな環境でしか発生しないだろうなと俺は納得してるけど、新大陸から銀とか沢山持ってきてたみたいだし、金は潤沢だったようだ。

 こうしてスペイン王のカルロス1世として即位したカールははじめ、スペインでは総スカン状態だったみたいだ。よそ者のキザな野郎ということもあるし、ブルゴーニュ公国から来た連中がいきなりスペイン人をあごで使うような形になるのだから、それも当たり前というもの。この辺は蜀に入った劉備が派閥抗争に悩まされたのに似ているわけだ。
 あと、日本の戦国時代でたとえるならば、毛利元就あたりが、いきなり近畿や関東、九州に地盤をもっていたようなものでもある。

 しかし、忍耐強くスペインの人々に接し、また、各地で起こった反乱も鎮圧するころになると、なぜかスペイン人はカルロス1世を好きになってしまったようだ。カールはちょっとした人たらしだったのだろうか?ってところも俺が意外と好きになれるところだ。余計な争いはしない、ってことはみんなにとっていいことだからな。一方で武力を用いて反乱を鎮圧してるところは彼が自分でやったのではないにしろ、やるときはやる、ってことだろうな。あと、スペイン人も結構アツくなりやすいタイプの人が多いという印象があるから、きっと一旦受けた恩は情熱的に忘れないという土壌があったのかも知れない。また、この反乱側はカールとスペインの王女の間に生まれた子、フェリペを立てていたことも、別に反ハプスブルクという形の反乱でなかったことを示すわけで、そんなに大した反乱ではなかったのかもしれない。
 それにしても、最後にはスペインやネーデルラントなどの国民の大部分に支持されていたことを考えると、ただ者ではない、という印象を受けるざるを得ない。カールは人柄が温厚であって気さくに民衆と接していたらしい。このことは、俺も学ばなければならないと思っている。

 その後、カールの祖父マクシミリアン1世が死ぬと、次の神聖ローマ皇帝の選挙が行われた。フランス王フランソワ1世がカールの対抗馬だったが、いかんせん、新大陸からの収入が多いスペインを背景にしたカールの方が選帝侯の買収は容易だったことだろう。選挙結果は7票全部がカールを推すことになり、晴れて神聖ローマ帝国の皇帝になったわけだ。このころ、ハプスブルク家はハンガリーも結婚で手なずけていたし(最後には取っちゃうことになるんだけど)、スペインは新大陸のほか、イタリアの南部を実質的に領有していたから、カールはヨーロッパ大陸の大部分を領有する君主となったわけだ。

 こうしてまずは1519年に皇帝になったカールは、若いながらも、ドイツ国内の課題である宗教問題に手を付けなければならなかった。ルターを呼び出したヴォルムスの帝国議会でルターの意見を聞くということになった。ハプスブルク家は神の御加護を信じてやまないカトリックの信者であったから、当然、カトリック側に立ってことを進めることになる。それでも、ルターの意見にはカールもかなり耳を傾けたらしい。当時のカトリック教会はだいぶ腐ってようで、共鳴する点も多かったのだろう。でも、やっぱりローマ教皇の顔を立てて、ルターを破門して、国外追放としたようだ。この辺、敵の意見をきちんと聞いているあたりも、俺は気に入った。また、教皇側からは、ルターを殺せ、という意見があったらしいが、カールはそれをやめて国外追放にとどめたことも、俺が好きな所である。殺してみる、という選択肢はかなり有力であったにもかかわらず、である。

 その後、カールはスペインに足掛け8年くらい滞在して国内を整備することになる。スペインは新大陸に広大な領土を持っていたから、これも大変なことであったらしい。国内の体制を整えてから、次はトルコとの対戦である。
 しかし、その前にケチがついた。フランスである。1525年、フランソワ1世がイタリアに隙ありと攻めてきたのだ。これはフランソワ1世にしてみれば、スペイン・オーストリアのハプスブルク家に挟まれたフランスの生きる道を探るの一手であったのだろう。フランスは最初こそ調子良かったが、ここでは最後の砦、パヴィア要塞を攻略しあぐねて、皇帝軍にフランソワ1世が捕まってしまう。そのままマドリードに護送されたフランソワ1世がカールと条約を結ぶ。いわゆるマドリード条約であるが、領土割譲と娘をフランスに嫁がせるという内容だった。しかし、フランソワ1世は脅迫による無効を宣言してしまう。本国に帰って安心したからだろうか?大体、捕まえても約束しただけで、本国に帰してしまうところは甘いと言えば甘いわけだ。騎士道なのか?お人好しでもあるようだ。そのくせ、2年後には、ドイツ兵がローマを略奪するなんてことも起きている。これは、カトリック教会への恨み、ということもあったようだ。こういうのは容認したりしているところも度量の広さを感じさせる。

 今度は1529年、スペインを本拠地にしていたカールであったが、帝国内のオーストリア大公国(カールの弟フェルディナントがオーストリア大公であった)、そこがトルコ軍に攻撃を受けたのである。攻撃はついにはオーストリアの首都ウィーンを包囲するところまできた。帝国内の諸侯の軍をもってして防衛すべきであったが、ドイツの国内は宗教問題で軍が集められない。新教側の領主が兵をなかなか出したがらないのだ。さて、どうするか?というところで、親政していたトルコのスルタン、スレイマン1世が軍を引き上げた、ということで決着が付いた。これも数あるハプスブルクの神の御加護の中の1つである。しかし、この時、カールは宗教問題の解決を早くしなければ、キリスト教国全体が危ういと感じたに違いない。

 1535年には、チュニスにカール自ら親政し、当時地中海を席巻しつつあったトルコの海軍を破った。これはオーストリアというハプスブルク家の領土を防衛するのではなく、単に異教徒の軍隊を地中海から追い払う目的だったから成功したのだろう。キリスト教国が一丸となって海軍を編成し、勝利することができた。これをきっかけにキリスト教国がまとまったといえば、それは違った結果になった。フランス王とローマ教皇がカールの指導権を認めない方向で一致し、なおかつ新教徒やトルコと誼を通じて背後から皇帝をおびやかそうと画策しはじめたからである。

 フランスとローマ教皇のケチがついて、カールはドイツ国内をまとめあげることが難しくなった。これでやりやすくなった新教徒の領主たちはシュマルカルデン同盟を結び、反カトリック、反ハプスブルクを目標に団結してしまった。ここでも、カールは同盟に対し、武力ではなく、説得で帝国の統一をしようと計ったが、これは失敗する。説得を10年くらい続けていたことになる。こんなに時間を経たせていいものかどうか、俺は疑問に思うが、そこがカールのいいところなのではないかと思う。最後まで、戦争という手段に訴えないところが、である。しかし、1546年、説得の甲斐がないと悟ったカールは、シュマルカルデン同盟に対し武力攻撃を開始した。シュマルカルデン同盟自体、全くまとまりのない集団であったようで、結局敗れてしまい、1548年にスペイン兵を連れてきて武装した国会が開催される。アウグスブルクの帝国議会である。この時、どの領主も皇帝に従ったらしい。まあ、軍隊が周りを包囲していれば当然といえる。これは、神聖ローマにとって皇帝の権威が空前絶後の状態であったことを意味している。ドイツはもともと小さい国家が寄り集まっていた国であったが、この時はカールによって統一されたと言っても過言ではないだろう。その背景には、すぐに戦争を始めないで、我慢強く説得を続けたことの効果もあったと思う。

 しかし、それも、つかの間であった。1552年、腹心のザクセン公モーリッツの裏切りに会うのである。そして、カールは命からがら逃げ出した。カールの権威を背景にした帝国統一は残念ながらこの時点で終了、さらにカールの実質的なドイツ一円の支配も終止符を打たれることになった。その後1555年、アウグスブルクで再び帝国議会が招集され、今度は新教徒側が主導的役割を演じることになる。モーリッツが新教徒であって、この場ではカールはローマ王(次期皇帝)の弟フェルディナントに交渉を任せた。結果、宗教は領主が決める権利も有すること、ルター派が全面的に認められることが決定した。カトリック側に立って、相互理解のもとに宗教の統一を目指してきたカールは、その夢が40年たって実現できなくなったことについて、どう思ったであろうか?

 その後、1555~6年にかけて、カールは次々と官職を捨てていった。皇帝を辞し、スペイン王を辞し、その他の肩書きも捨てた。いさぎよく隠居したのである。そして1558年、カールは「もっと先へ・・・」と言い残し、この世を去る。

 最後に、俺が好きなこぼれ話を一つ。よくある、水戸黄門系の話だけど、俺は結構気に入っている。
 カールは弟のフェルディナントがブルゴーニュ(だったかな?)に来るという話を聞いて連れを一人だけ連れて、早く弟に会いたいから、と急ぎ出発した。そのうち、夜になったが、あたりは田舎で、皇帝向きの泊まる場所もない。従者が近くの家を探索して夜中であったが、皇帝のお出ましだから、ということでそこの主人をたたき起こした。そこの主人は明かり持って出てきて、「誰だ?あんたら?」と聞くと従者をさえぎって、カールは「旅のものだが、泊めてくれ。」と言った。少なくとも騎士の格好はしていたので、主人は泥棒はすまいと思い、「まあ、いいだろ。ところで、名前はなんていうんだ?」と聞いた。「カールって言うんだ。よろしく頼む。」と答えた。主人が「ん?カールか・・・。よし、カール、ちょっと明かり持ってろ。俺はションベンをしてくる。泊めてやるんだから、そのくらいいいだろ?」と言うと、カールは喜んで明かりを持って待機した。主人は従者が何か言おうとしているのを横目に、便所へ走っていった。
 戻ってきた主人が「お、カール。ご苦労さん。じゃ、むさ苦しいところだが、入ってくれ。」と言う。従者が「お前なあ、このお方は、神聖ローマ皇帝のカール陛下だぞ!」と言うと、主人はあわてて明かりをカールに向けた。「あ!」と気が付いたようで、「これは・・・存じませんでした。お許し下さい!」と謝った。カールは「いやいや。別に構わないよ、私が泊めてもらう方なのだから。」といい、この主人には生涯の免税特権を与えた。
 




5.最後に
(ここまで読んだあなたに感謝!)


 くだらない文章だったけど、何となく分かってもらえたかな、と思う。俺はこういうのが好きなんだ。
 あと、歴史事実と異なる点もあると思う。「これは絶対におかしい。学校では教えられない!」という程度の誤りがあれば、是非指摘してもらいたい。細部にまでこだわってないので、そのくらいで結構。お手を煩わせることはしないんで。でも、間違ったことは訂正したいし。
 俺の歴史観がうんぬんっていうのは、ご勘弁願いたい。理論的なアドバイスなら受けるけれど、単なる文句は読みもしないのであしからず。大体、歴史の教科書を書いているわけではないので、俺がどういうのが好きなのか?ということを分かってもらうと同時に、日本以外の歴史に興味を持ってもらえれば、という趣旨で書いていることだからな。そもそも、最後まで読む人はほとんどいないと思ってるけどね。気になった人は読んでくれ、って感じの内容だし・・・。
 






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